LOOSE GAME 03-4


圭ちゃんは、あたしの敵になるって言った。

今、思い返すと、それは決して間違ってたことじゃないと分かった。
圭ちゃんのおかげで、娘。はバラバラにならずにすんだ。

あたしのやってたことも、間違いじゃなかった。
ただ、やり方を知らなかっただけ。

圭ちゃんは身を呈して、あたしから、あたしより年下のメンバーを守った。
多分、そのことで一番つらかったのは、あたしより圭ちゃんだったと思う。

**********

春コンが始まって。
もう、あたしの周りにはメンバーすらいなくなった。
辻や加護とはしゃぐこともなくなった。
ときどき、心配そうにあたしに声をかけてくれる梨華ちゃんと時々話すくらい。
ツアー中、あたしは、殆ど誰とも話さず、ずっとウォークマンを聞いていた。
空き時間さえも、ふてくされた態度で。
ヘッドフォンを耳から離すことはなかった。

そして、あたしが孤立するのを待ってたかのように、アイツが現われた。

娘。を。
あたし達の娘を、決して誰の手にも渡そうとはしない、偽善ぶった薄ら笑いを浮かべたアイツが。

春コンの初日だった。
アイツはいつも初日にはやってくる。

朝一のリハーサルが終わって、昼公演が始まるまでの空き時間。
あたしは、アイツに、コンサート後に医務室代わりに使われることになっている、誰もいない空き部屋に呼び出された。

こんな風にアイツと向き合うの初めてのこと。
あたしは、自分の心臓がばくばくと波打っているのをリアルに感じていた。

その部屋のドアを開けると。
アイツは、急ごしらえのパイプベットに腰掛けて、あの時みたのと同じ、ビー玉みたいな目でタバコをくゆらせてた。
同じ大人なのに。
強い力を持った、あの人の目とは、何て違うんだろう。
そのとき、あたしはそう思った。

どうして、こいつの目は、こんなガラス玉みたくなっちゃったんだろう。

多分、コイツは、闘うことを止めたからだ。
少し前のあたしみたく、流されてうつろな道を歩く方を選んだからだ。
コイツは負け犬なんだ。

初めて、アイツのことが、ほんの少し憐れになった。

多分、もう、こいつには本当の自分は残ってないんだろう。
身も、心も、マニュアル仕掛けのロボットになってしまったんだろう。

あたしは、こんな風には、死んでもならない。

「よぉ。吉澤。お前、まだやんちゃ、やめる気ないんやってなぁ」
平坦な声で、アイツは言った。
「何の用ですか?」

あたしはあたしの勝負に生きる。
こんな屍みたいなヤツに負けてたまるか。

「ふーん。何や、お前なんか単なる頭でっかちで、何にも出来んヤツやと思っとったけど、ずいぶん偉そうになったんやなぁ」
「言っても、わかんないと思いますけど。あたし、つんくさんの可愛いお人形さんでいるのはやめたんです」
あたしがそう言うと、アイツは、壊れたおもちゃみたいに、急にゲラゲラと笑い始めた。
それが、本当にキチガイ染みてて、あたしはちょっと怖くなった。

「お前は、本当に面白いヤツやなぁ、吉澤。言うとくけど、お前は最初からちっとも可愛くなんかなかったぞ。見た目がそこそこやったからついでで入れたったけど、歌はアカン、ダンスもアカン、おまけにベシャリもアカン。お前は入ったときから今まで、ずーっとただのでくの坊のお荷物や。さっさと辞めさせたろ思たけど、石川がお前のこと頼りにしたり、加護がホームシックになったときに、お前にしがみついて離れんかったりしたからな。アイツらのためにしょうがなく置いといてやったんや。ええか?お前はただの、アイツらのオプションや。つけあがんな!お前みたいな愛想のないブタは娘。にはいらんのや!!オレのモーニング娘。に置いてもらえるだけありがたくおもわんかぁああああ!!!」

喋ってるうちに、アイツの目は血走り、口角には泡が浮かんだ。
あたしは初めて、狂気というものを目の前で見た。

狂ってる。
コイツは狂ってる。
怖い。

そう思った。

一刻も早く、この部屋から逃げ出したいと思った。
足がガクガク震えて、体中に変な、冷たい汗がつたった。

でも。
あたしは、知らず知らずのうちに、固く握り締めてた自分のこぶしに気がついた。
爪が刺さるほど、強く強く。

そうだよ、ここで逃げ出すわけにはいかないんだ。
あたしには、ちっぽけだけど、でも、このこぶしがある。
あたしのこぶし。

闘うんだ。
そう決めたんだ。

「娘。はアンタのなんかじゃない!娘。は娘。のだっ!!」

叫んでた。
足はまだ震えてたし、胃液がこみ上げてくるのも感じてた。
でも、あたしは叫んでた。

アイツは、狂気の目のまま、あたしに近づいてきた。
あたしは気おされ、後じさり、背後のドアに背中をつけた。
アイツはあたしの胸倉を掴んで。

衝撃。

二度、三度。
平手で殴られた。

耳がキーンと鳴って、痛みより熱が頬を駆け巡った。
口の中に鉄の味。
血の味が広がったのを覚えてる。

今まで、人に殴られたことがないわけじゃない。
シャレにならないいたずらをしてお父さんにひっぱたかれたこともあるし、バレーをやってたときはよく監督に殴られた。
でも、憎しみだけの気持ちで、殴られたのは初めてだった。

圧倒的な恐怖。
本能の。
痛みと、殺されるかもって、そういう恐怖。
今まで向けられたことない、本当の憎しみのパワーに、今まで感じたことのない恐怖を感じた。

その恐怖を前にして。
あたしの前にふたつの選択肢がぶら下がっていた。
自分を守るため「逃げる」道と。
自分を守るため「闘う」道。

FIGHT OR FLIGHT

どちらを選ぶかはほんの紙一重で。
あたしに勇気があったわけじゃない。
あたしが強かったわけじゃない。

ただ、その時、とっさに浮かんだのは、あの人の闘う目で。
それが何を意味するのか、自分で分かる前に、あたしは、自分のこぶしを突き出していた。

それは、生きるための本能だったんだ。

あたしが、まさか反撃してくるなんて思ってなかったアイツの顎に、それは見事にヒットして。
アイツは無様に尻餅をついた。

でも、それをいい気味だなんて思えなかった。
そのときあたしが感じたのは。
闘うために突き出した、自分のこぶしの痛みだけだった。

**********

あたしは、誰もいないことを確認したトイレの個室で、コドモみたいにわんわん泣いた。

誰かに、憎しみのために殴られたことも。
殴られたことで感じた恐怖も。
誰かを殴った、自分のこぶしの痛みも。

すべてがあたしの感情を昂ぶらせて。
あたしが壊れてしまいそうだった。
泣かなければ、壊れてしまいそうだった。

そして、他人事のように自分の耳に響く、自分の憐れな泣き声が、また怖くて。
また、泣いた。
頭の中、ワケ分かんなくなって。
とにかく泣いた。
体中の水分が涙になって流れてしまえばいいと思った。

でも、そこに誰かの足音が聞こえてきて。
嗚咽の収まらないあたしは、とっさに自分のこぶしを噛んだ。

がちゃり。
トイレの入り口のドアが開いて。

細い歌声が聞こえた。

それはよく知った声で。
でも、あたしの知らないメロディーだった。

歌詞はない。
あったのかも知れないけど聞き取れなかった。
ただ、子守唄みたいに優しいメロディーが耳に流れ込んできて。

声の主の彼女は、個室に入ろうともしないで、歌い続けた。
彼女は、用を足しに来たんじゃないみたいだった。
隠れて、ここに歌いに来たみたいだった。

細かった歌声が、だんだん力強いメロディーになって。
多分、洗面台の鏡の前で、軽いステップを踏む足音すら聞こえてくる。

それは、真っ暗な闇の中で、自分だけが踏みつけられてると思って自己憐憫に浸っていたあたしを励ますみたいに。
一人でわんわん泣いてた自分をバカみたいに思わすみたいに。
あたしに、一筋の光を投げ出すみたいに。
あたしには、そう、思えたんだ。

それに、誰もいないと思い込んでるトイレで。
ステップまで踏みながら歌う彼女が、少し、滑稽でもあったんだ。

嗚咽をこらえるために噛んでいた手を。
あたしは、笑いをこらえるために噛んだ。

そして、彼女の歌声がクライマックスにさしかかった頃。
彼女は、ふいに声をあげた。

「やだっ!!」

多分、一番奥の個室。
あたしが笑いをかみ殺している個室のドアが「入ってます」の赤い印になっているのに、やっと気づいたんだと思った。

彼女は、ぱたぱたと足音を響かせて、慌ててトイレから出て行った。

ねぇ、逃げたって無駄だよ。
だって歌声で、分かっちゃったんだもん。

ねぇ、かおりん。

**********

ツアーが始まった。
今日はココ、明日はアソコ。
自分が日本地図のどこにいるのかもわからないようなツアー。

新幹線に、飛行機に乗せられて。
その後は、バスやワゴン車に揺られて。
たどりついた代わり映えのしないホールで、代わり映えのしないステージ。
代わり映えのしないホテルで一夜を過ごすと、また乗り物の中。

でも、決めていたことは。
あたしはもう手を抜いたりしない。

言われなくったって分かってるさ。
歌もダメ。
ダンスもダメ。

でも、だからこそ。
声がかれるまで声を出すこと。
動けなくなるまで体を動かすこと。

それ以外に、あたしに何があるっていうの?

もう、控え室でもホテルでも、あたしは誰とも口をきかなかった。
それは、誰よりも優しい圭ちゃんが、悪者になってまで娘。を守りたいって言ったのに敬意を表してと。
それと。
あたしは初日の一件で。
本気でアイツを怒らせた。
あたしはいい。
自分で始めたことなんだから。
だけど、あたしのせいで、あたしと関わったせいで、誰かがややこしい立場に置かれるのは目に見えてたから。
何があってもそんなことはさせたくなかった。
あたし自身のためにも。

これ以上、誰かをつらい思いにさせたら。
あたしは多分、崩れちゃう。

**********

そして、あたしが18になる、ほんのちょっと前の。
どこかの地方の夜。
うん、もう真夜中って言っていい時間だった。

あたしは、窓の外に。
ホテルの中庭に。
まるで消えていきそうに、でも、はっきりと白いワンピースをなびかせて立っている彼女を見た。

あたしは自分の部屋から、彼女のまわりに誰もいないことをよく確認して。
パジャマ代わりのジャージの上にGジャンを羽織って、外に飛び出した。
彼女にどうしても聞きたいことがあったんだ。

もどかしい気持ちでエレベーターを降りて、彼女のいる中庭に続くドアを、細く開いた。

そうしたら。
窓から見下ろした、儚げな彼女とは全く似ても似つかない。
どちらかと言えば力強いようなメロディーが聞こえてきた。
彼女は、また、歌ってた。

あたしは、彼女に声をかけるのをためらった。
だって。
そのメロディーがあまりにも心地よかったから。

よく聞くと、その歌の歌詞は、めちゃくちゃ英語だった。
やたらめったら、ベイビーだのダーリンだのってあたしでもわかるような英単語がちりばめられてて。
でも。
正直な話。
この前出たばっかりの、ジャズだかシャンソンだかよくわかんないけど。
眠たくなっちゃうような彼女のソロアルバムより、ずっとずっと、カッコよくて生き生きした歌だと思った。
かおりんは、すごいキレイだし、大人っぽいし、絵描いたり、詩を書いたりそういうアーティスティックで、しっとりした部分ばっかりクローズアップされてるけど。
あたしは知ってる。
本当は、結構子供っぽくて真っ直ぐで、情熱的な、ロックな人だって。

彼女の歌声がやむのを待って、あたしはそっと声をかけた。
「すごい、いい歌」
かおりんは、飛び上がるほど驚いて。
あたしを見て。
こっちが申し訳なくなるくらい真っ赤になってしまった。

「よよよよよよよっすぃー!!!」

あたしは慌てて唇に指を当てて「シーッ」と言った。
誰か起きてきちゃったら大変だよ。
かおりんは大きな目を零れ落ちるんじゃないかと思うほど大きく見開いてあたしを見てた。

「窓から、見えたから」
「や、やだぁっ」
「えーっと……」

やっぱり声をかけない方がよかったのかな。
かおりんは泣きそうな顔でしゃがみ込んでしまった。膝の上に顔を埋めて。

「あの……。ごめん、なさい。驚かして」
「聞いちゃっ…た?」
白いワンピースの裾に顔を埋めたままくぐもった声でかおりんが言う。

「あ、あのね。ツアーの初日でも、かおりんトイレで歌ってたでしょ?それ、あの、すごくいい曲だなぁって思って。今も。今のも。何て歌か教えて欲しくって」

かおりんは大きな体を、限界まで小さく丸めてしゃがみ込んだままの姿のまま、動こうとはしなかった。
彼女の長くてきれいな髪がワンピースの上ではたはたと夜風になびいた。
それは、本当に穢れなくて健気なかおりんだった。
それを見てて。
自分が、娘。の危険分子だったってこと。フイに気づいて。
すごくすごく娘。を大切にしてるかおりんに、あたしなんか、近づいちゃいけないような気がしちゃって。
何か、あたしがかおりんを汚しちゃうんじゃないかって。

だってかおりんって、すっごく強くてすっごく弱くて。
そういうところ、ときどきあたしを不安にさせたから。

「……ごめん。部屋に戻る」

あたしは、踵を返した。
もう、かおりんとふざけあったり出来るあたしじゃなかったんだって。

そしたら、かおりんに腕を掴まれて。

「誰にも言わないで」
かおりんは大きな目に涙をいっぱい溜めて。
せっぱ詰まったみたいな顔でそう言った。
「言わないよぉ」
あたしはかおりんに笑顔を返したつもりだった。
かおりんに心配させたくなかったし。

そしたら、かおりんはいきなりあたしの頭を抱きしめた。

「ごめん。カオリ言葉間違った」

娘。の中で、唯一あたしより背が高いかおりんに、いきなりヘッドロックをかけられるみたいに頭を抱かれて、あたしはバタバタと暴れた。

「急に、よっすぃーが現われたからびっくりして。ごめん。よっすぃーの顔見たら言おうと思ってたことがあったんだった」
「ちょっ、かおりんっ。くるし……」
かおりんは、あたしの耳に唇を寄せて。
泣きたくなるくらい優しい声で、そっとつぶやくように言った。

「大丈夫?」

その「大丈夫?」は、かおりんのヘッドロックにじたばたしてるあたしへの「大丈夫?」じゃなくて。勝手に自分の周りにバリケードを張って、勝手に悩んで傷ついて、七転八倒しているあたしへの「大丈夫?」だって、すぐにわかった。
乱暴なヘッドロック。多分彼女は優しく抱きしめているつもりだったと思うけど。と、その優しい声色のギャップに。
何も思い悩むことなんかなくて、ただ毎日一生懸命「娘。」して、毎日無邪気に笑ってた、幼かった頃の自分を思い出して。
ちょっと胸が痛くなった。

あたしは、何とかかおりんの腕から逃れて。
ふたり見つめ合った。
どちらともなく、ぺたんと、その場の芝生の上に腰を下ろした。

「私が、作ったの」
「へ?」

かおりんは何の脈絡もなく話し出すから。
いつもそれが面白かったりもするんだけど。
やっぱりときどき戸惑ってしまう。

「さっきの、歌」

かおりんは恥ずかしそうに、体育座りしたワンピースの膝に頬をつけて、そう言った。

「えっ…ええっ?かおりん自分で作曲したりするんだー。えぇー。すごい、かっけー」
「いつか、自分の作ったものが出せたらいいなぁって」
「すごい、すごいよかったよ。いい歌だった」

かおりんは、いつものマリア様みたいな笑顔を浮かべた。

「あのね、カオリ、よっすぃーの気持ち。わかるよ」

それで、また突然話題が飛ぶから。
あたしの頭は混乱してしまう。

「でも、カオリは自分のことが一番大事だからさ。もちろん娘。も大好きだし、よっすぃーのことも大好きだけど。よっすぃーの不満とか、真正面からぶつかっていく気持ちもわかるよ。カオリだって伊達に長く娘。やってるワケじゃないしね。だからよっすぃーが今ギリギリのとこでがんばってるのも、多分、ダメになっちゃうのも―――あ、ゴメン」

そう。
多分あたしは破滅への道を一目散に駆け抜けているんだと思う。
いいよ、かおりん。
その通りだよ。

「よっすぃーとも、みんなとも。いつまでも仲良く楽しくやっていけたら一番いいとは思うんだけどさ。裕ちゃんから受け継いだ大切な娘。だから、本当に、心から、愛してるしがんばっていくつもりもあるけど。でも、カオリにとって一番大切なのは自分なんだ。あ、ううん。自分っていうか、自分が作った、生んだモノ、かな。絵も詩も歌も、みんな。それを大切にしたいし、みんなに伝えたい。だから、その時期が来るまでは娘。にしがみついていたいんだ。嫌なリーダーでしょ?だから、ずっとよっすぃーのこと見てて、力になってあげたいとか話を聞いてあげたいとか思ってたけど無視してたんだ。私はそういう利己的で打算的な人間なんだよ。しかもそれを分かってても、自分の作ったものを一番大切にしたい気持ちには変わらないんだ。ごめんね、よっすぃー。もし、私じゃなくて、たとえば裕ちゃんがリーダーのままだったら、よっすぃーはこんなに苦しまなくてすんだかもしれないのにね。でも、私には圭ちゃんみたいに自分の身を呈して娘。を守ることも、反対によっすぃーを守ることも、できないから」

違う。
それが正しい姿なんだ。
かおりんは間違ってなんかいない。
自分が一番大切なのは当たり前のことなんだ。
それを恥じる必要なんかないんだ。

あたしの為なんかに、後ろめたく思う必要なんかないんだよ。

かおりんは強い。
自分のずるさから目を反らさない。

かおりんは、本当は純粋で真っ直ぐな人だ。
ごまかしとか、そういうのキライな人だ。
そして、頑固で冷静な人だ。
何より、こっちが心配になるくらい正直な人だ。

だから、自分の中で一番大切なものを見極めて、その大切なものの為に、他の大切なものを犠牲にすること悩まなかったはずが無い。
でも、それがかおりんが出した答えなら、それに従うしか、かおりんにはできないんだ。
一番大切なものをごまかして、他の大切なものを守るなんて。
かおりんにはできないんだ。

それがわかってるから。
そして、そんなかおりんが大好きだから。

いつまでも、そのままのかおりんでいて欲しい。

「あたし、誰かに守って欲しいなんて思ってないよ。自分でそうすることに決めたから、こんなバカな真似、してるんだ。だから、かおりんも負けないで。そのかっけー歌。ずっと作り続けてて。かおりんは、あたしの憧れの人だから。だから、そのままで、変わらないで」

夜の芝生に座り込んだ、あたしとかおりんの、心地よい30センチの距離。
その間を、夜の湿った風が通り抜けた。

**********

春のツアーは続いた。
そして、奇妙な偶然が訪れた。

それに気づいたとき、あたしは胸の高鳴りを押さえられなかった。
娘。のツアーの福岡公演。
あの人たちのツアーの福岡公演。
それが、重なるなんて。

厳密にいえば重なったわけじゃない。
重なったら、自分のコンサートがあるんだもん、あの人たちのライブは見れない。

そうじゃなくて。
あの人たちのライブの夜に、私たちは前乗りで福岡入りする。
そんなこと滅多に無いのに、その日の仕事は午前中で終わるから、そのまま午後には福岡入りするから。
ホテルを抜け出して、上手くいけばあの人たちのライブが見られる。

福岡にこだわるのは。
そこが、あの人達にとっての聖地だから。
彼らのファンとしては、彼らの福岡でのライブに参加できるというのはとても特別なことなんだ。

あたしには仕事があったから、福岡に遠征するなんてとても無理だと思ってたのに。
思ってもなく、そのチャンスが、訪れた。

圭ちゃんと食事した夜以来、プライベートにあの人たちと会うことを自戒してたから。
ライブだけがあたしを癒す場所になっていた。

ああ、嬉しい。
彼らの聖地で、彼らを見ることができる。

あたしの胸はその思いでいっぱいになった。

そして、その日。
とにかく仕事がおさないように、ソレばっかりが気になってた。
予定では福岡入りが4時、それからホテルに移動して、マネージャー連の目を盗んで抜け出して、聖地「福岡DRUM LOGOS」までタクシーを飛ばしても開演ギリギリになってしまう。
万一飛行機に乗り遅れたりしたら福岡参戦は完璧にアウトだ。

あたしはうんとソワソワしてたんだろう。
そんなあたしをチェックしてたふたりの人間に、あたしは全く気づいてなかった。

奇跡のように、時間通りに福岡入り。
そしてホテルへの移動も、これまでにないくらいスムーズで。
あたしは上機嫌だった。

5時にはチェックイン。
ラッキーが重なり一人部屋。

辻加護の遊んで攻撃につかまる前に、私は用意を整えた。
ツアー中のホテルからの無断外出は、修学旅行の無断外出より、もっと厳しいタブーのひとつ。
なぜなら、ツアーにその地に来てるってファンには分かってるから。
そして、地方のファンは、芸能人に接する機会が都会の人達より少ないから。
見つかったらシャレになんない。
パニック必須。

あたしは、もしマネージャー連に見つかっても、お菓子を持って誰かの部屋に遊びに行くように見えるように祈りながら、ジーンズの上はTシャツ1枚で、手にしたコンビニのビニール袋の底にスカジャンと帽子を押し込んで、その上にジュースやお菓子をカモフラージュに放り込むという念の入れようで自分の部屋を出た。

奇跡だ奇跡だ奇跡だ。
神様があたしを聖地に導いてくれてるんだって。
バカなこと思っちゃうくらい、誰にもすれ違わずにエレベーターに乗り込めた。
後は最後の関門、フロントを突破するだけ。

ところが。

エレベーターを降りると。
フロント前で、若い事務所のスタッフがふたり。
追っかけファンの対応と、多分、あたし達メンバーの抜け出し対策のために立っていた。

あたしは思わず、エレベーターホールの影に身を潜めた。
ヤバイ。
これは抜けれなそう。
強行突破?
だめだめ、大騒ぎになっちゃう。

そうこうしているうちにも時間は無情に過ぎていく。
ライブの開演時間は迫っていく。

でも諦めたくない。
彼らの生まれた地。
彼らの愛する地。
その、ここ博多での彼らのライブが見たい。

多分、彼らに興味もない人には、それが一体何?っていうようなことなんだろう。
でも。
たとえば、あたし達、娘。のこと、本気で好きでいてくれるファンの人なら分かると思う。
何の得になるわけじゃない。
そのパワーを何か他に活かせればって思ったりする。
だけど、ただ、好きだっていうだけのシンプルででも一番強いパワーに憑りつかれて。
多少のリスクを背負っても、駆けつけたい気持ち。

そのとき。

揃いのピンクの特攻服を着た男の人たちが。
とんでもなく大きな文字で「石川梨華」と刺繍が入って。
梨華ちゃんの写真の缶バッジをいっぱいつけて。
やっぱり「梨華」って書いた鉢巻まで揃いでつけてる。

あーあ、あんな格好でウロウロしてたら一発でファンだってバレバレなのに。

そんな男の人が5人。
勇敢にもフロント正面突破を図った。

もちろんスタッフ2名はすぐにそれに気づいて止めようとする。
ただ、相手は5人。
何とか振り切って、こっちに来ようとする。
ホテルの人たちも慌てて彼らを止めようとする。

「梨華ちゃあーーーーん!!!」

ファンの人の一人が野太い、すっごく大きな声で叫んだ。
フロント周辺は一気に慌ただしくなる。
特攻服隊5人と、スタッフとホテルの人たちの揉みあい。

チャンス!!!

あたしは、この機を逃したら絶対に逃げられないと、本能で悟って。
根性を決めて。

一気に彼らのそばを走り抜けた。

振り返らずにホテルを出て、ホテルの玄関先のロータリーに並んでいるタクシーの一台に飛び乗った。

ヤヴァい梨華ちゃんファンの人、ありがとう!!

「中央区、DRUM LOGOSまで」
勢い込んで運転手さんに言う。
運転手さんは、後部座席の自動ドアを閉めようとして。
「おおっと」
ドアの方を見て小さく声を上げた。

あたしが、転がり込むように乗り込んだドアから。
別の人間が、同じ様に、転がり込んできた。

「早く出してください!」

転がり込んできた、その人間が心持ち舌っ足らずな喋り方で言う。
運転手さんは、言われたとおりにドアを閉め。
夕暮れの博多の街に車を走り出させた。

「のの!!」

あたしは、あたしの隣で、てへてへと笑っている彼女に言った。
「何で!あんた……!!」
「えへへへ。よっすぃーの考えてることなんかお見通しなんです」

あたしは頭を抱える。
何で。

とにかく彼らの聖地でのライブが見たくて。
そのためには、今だって十分状況は悪いんだし、これ以上悪くなったって構わないって思ってて。
あたしだって、自分のコンサートはめちゃくちゃ大事なんだもん。
彼らのライブが終わったら、大人しくホテルに戻るつもりだったし。
テレビでのよっすぃーと、街をうろついてるときの、革ジャンやスカジャンを着たガラの悪いあたしとはあんまりかけ離れてるから、ファンの人にばれない自信もあった。

だから、第一級の禁止事項のホテル抜け出しもやったんだ。

最悪、怒鳴られようが殴られようが、あたし一人の問題だって。
そんな諸々と、彼らのライブとを秤にかけて、彼らの方が重かったんだ。

だから。
なのに。
何で。

隣にののがいるんだろう。

**********

「のん、何度もよっすぃーにライブに連れてってって言ったもん」

頭を抱えるあたしの隣で、ののはちょっと唇をとがらせてそう言った。

「でも、よっすぃー、絶対連れてってくんないし。でも、ここ2,3日妙にうきうきしてるから。絶対何かあると思って、インターネットで調べたら。のん達がここに来る日にここでコンサートがあるってわかったから。よっすぃーは絶対これに行くつもりだって思ったんだもん」

くそう。
まさかののがネットなんか使えるとは夢にも思ってなかったぜ。
……っていうか、そんなことはどうでもよくて。

どうしよう。

「のののこと追い返す?そしたらよっすぃーが抜け出してコンサート行こうとしてることもばれちゃうよ?」

のののしたたかな微笑み。
そうだよ。
こいつはこういうやつなんだ。
天使の顔をしてるくせに、意外としたたかなんだ。

「のん、絶対帰らないからね。よっすぃーと一緒にコンサート見るんだもん」

しょうがない。
タクシーは彼らの元へ走ってる。
今更追い返したりできるもんか。

「すっげぇ、怒られるよ?」
「平気だもん」
「……普通に、怒られるだけじゃなくて。ののだって分かってんでしょ?最近のあたしの状態。ののの大好きな歌。歌えなくなったりするんだよ?」

ののは、その澄んだ目で。
まるで、珍しいものを見るみたいにあたしのことを見た。

「今度の新曲、のんは「多分」しか歌ってないよ。そんだけしか歌ってないの、のんだけだよ?」

それは、別に恨みつらみとか、そんな感じの言い方じゃなくて。

あたしは、いつも思ってた。
恥ずかしくて、誰にも言えなかったけど。
新しいシングルが出るたびに。

今回は、誰よりソロが多かった。
誰よりソロが少なかった。
そうやって、12人で細切れにするフレーズを数えて、誰かと比べて。
いい気持ちになったり嫌な気持ちになったり。

でも、そんな風に思ってること。
すごい恥ずかしいことって思ってたから。
誰にも言えなかったし。
つい、そんな風に考えてしまう自分を、心底から嫌ってた。
恥ずかしくて卑しい人間だって思ってた。

でも、ののは、それを平気で口にする。
ののはシンプルだから。

沢山歌いたい。
でも、歌えなかった。

それで全てが終結する。

あたしみたいに、誰かより沢山歌えるのは、誰かより勝っていたからだろうか?
誰かより、歌う場所が少ないのは、誰かより劣っていたからだろうか?

そんないやらしい考え方をしない。
そんなことで。
自分を誰かと相対評価して悩んだりしない。
そして、その誰かを、根拠もなく羨んだり、嫉妬したりしない。

だから。

ののは強い。
ののは愛される。

「のんは、よっすぃーが聞かせてくれた音楽が好き。よっすぃーはカッコいいから。よっすぃーがカッコいいって思うものはカッコいいと思う。よっすぃーが無茶しても聞きたいモノだったら、のんも聞きたい」

やだよ。
そんな風に言わないで。

あたしは慌てて走るタクシーの窓の外を見た。

泣きたくなるじゃん。
あたしはカッコよくなんてない。
いつも、中身はぐちゃぐちゃで。
だらしなくて、卑しくて。
そんな自分が大嫌いだから。

だから、いつも、そんな自分じゃない自分を装っているんだよ。

頭でっかちで。
ぐじゃぐじゃ考えるくせにちっとも行動が伴わなくて。
みんながしている努力もできない自分が嫌いで。

だから、最近はいつも、ののや加護とばっかり遊んだりしてて。
あんたたちならごまかせるからって。
本当の話をしなくて済むからって。
お山の大将気取りで。

「かっけーよっすぃー」気取りで。

自分を取り繕っているだけなんだから。
だから。
そんな風に言わないで。

あたしは、本当は、ののにも、誰にも憧れられるような人間じゃない。

「それに、のんもいろいろ勉強したよ?ちゃんとCLASHもWHOもいっぱい聞いたから。えへへ。よっすぃーなんかより、多分いっぱい知ってるよ?「I FOUGHT THE LOW」も絶対よっすぃーよりちゃんと歌えるし。のんの「MY GENERATION」、今度、よっすぃーに聞かせてあげるね。ね、今日は「DO THE MONKEY」やるかな?のんあれ好きなの。後はね、やっぱり、ビートの早いのが好き。ねぇ、1曲目は「COUNTER ACTION」と「GANG ROCKER」とどっちかな?」

ふざけて、のの達に彼らや、彼らの愛する音を聞かせていたのは、もう結構前の話だ。
大人たちから禁止令の出る前の話だから。

それでもののは、自分で、彼らの音を聞き続けていたんだ。

彼らのこと好きなのはあたしだけだと思ってた。
所詮、娘。の誰にも、ROCKなんてわかんないって。

「1曲目は「壊れたエンジン」だよ」
「やーっ!もうっ。言わないでよぉー!!」

ののと、こんな話ができるとは思わなかった。
ののは、みんなの天使だったけど、その分、いつもどこかみそっかすで。
良くも悪くも。
5期の子達が入ってきてからも。
ののはいつも「娘。の末っ子」だった。

みんなに可愛がられてたけど。
数のうちに入れてもらえない存在。

でも、ののは強い。
何も知らない末っ子のフリをして、実はいつもいろんなものを見てる。
誰が元気がないとか。
誰が悩んでるかとか。
そして、怖いものなんか何にもないような子供の顔をして、そんな誰かのそばにとことこと近づいては、その天使の笑顔で沈んだ心を癒してくれる。

のののシンプルさが。
誰かに伝わって。
それがいつも娘。を元気にさせる。

「のんも―――のんだって。もっとROCKしたい」

あたしの隣で、そうつぶやく。
それが、多分、自分の妹分としてではなくて。
対等な同期としても。

あたしが初めて聞いた。
ののの、いつもの駄々っ子みたいなわがままじゃなくて。

それが、初めての。
ののの自己主張だった。

そうだ。

ののだって。
悩みを抱えてるんだ。

ののだって、大人になる。

何で。
娘。に入ったときから、ののとあたしと。
あたし達4人は、一緒にいたのに。
そんなことに、あたしは今まで気づかなかったんだろう。

**********

そして、タクシーは、あたし達の目的地に到着した。

もう、その大して大きくない建物の周りは、あたしにとってはお馴染みの。
ここぞとばかりの気合を入れた、KIDS達であふれかえっていた。

もう、その雰囲気を感じただけであたしの体は熱くなる。
彼らの熱を思って熱くなる。

あたしはののの手を引いて、当日券売り場に向かった。
自分の分のチケットはもちろん持ってるけど。
いきあたりばったりに飛び込んできたののの分はない。
当日券が無ければ。
多少ずるっこでも木崎さんに入れてもらえるようにお願いしようと思ってた。

そして、あたしにとっては多少慣れた、ライブハウスの防音の重い扉を開けて受付に向かった。

そこにいたのは、思いもかけない人。
あたしは、体中の関節が堅くなって。
背中に、脇に、ののとつないだ手のひらに、冷たい汗が流れるのを感じた。

「ここで待ってれば、現われると思った」

冷静な口調でそう言った。

いつもと同じ、素っ気無い白いワイシャツにジーンズ姿の。
あたしよりちょっと背の低い。
人懐っこい丸い顔に、ベリーショートの茶色い髪の。
ずっと、あたしの味方でいてくれた。

姫野ちゃんが、そこにいた。

苛立ちをたたえた表情で。
腕を組んで。
受付の前で。

あたし達を待ち構えていた。

まさか、そんなところで待ち伏せされてるって思ってたなかった、あたし達の手を引きずるようにして、姫野ちゃんはあたしとののを、建物の裏手の、人気のない路地へ引っ張って行った。

「まさか、辻が一緒だとは思わなかった」

姫野ちゃんは、いつもより2オクターブくらい低い声でそう言った。
ののは。
姫野ちゃんは、マネージャー連の中では一番年も近くて、いろいろ、あたしたちの話も分かってくれたから、みんなから信用されてて。
その姫野ちゃんの、いつもと違う、本気で苛立ったような雰囲気に。
おびえたようにあたしの後ろに身を隠した。

「バレてたんだ」
「ブッキングの時点からね。吉澤のヒーローとニアミスだってことは、計算に入ってた」

姫野ちゃんの口調は。
いつのも。
優しくはないけど。
懸命にあたしたちを理解しようとする、そんないつもの雰囲気とはかけ離れて。
結局は、彼女も「大人」なんだって。
そうあたしに思わせた。

「ののは関係ないよ。ずっと、あたしに連れてきてって言ってたから。あたしが勝手につれてきたんだ」

ののが、何か言おうとしたけど、あたしはそれを目線で制した。
でも、多分何も言わなくても。
姫野ちゃんには、ののが勝手についてきたこと、わかってただろうと思う。
姫野ちゃんは、本当に、娘。を。
ううん。
娘。の中にいる、あたしたちひとりひとりを愛してくれてた。

そんなこと、今更言ってもはじまらないけど。

「もう、ぐちゃぐちゃと余計なことは言わない。多分、吉澤は何があってもここに来るだろうと思ったから、私もここに来たの。だかから、これが最後のチャンスだから」

姫野ちゃんは苛立ちと、それから、いっぱいの悲しみの詰まった声でそう言った。

「帰ろう?私と一緒に帰ろう?」

あたし達が、壁にぶつかったとき。
何か悩みを抱えたとき。
姫野ちゃんはいつも笑い飛ばしてくれた。

何か適切なアドバイスをくれるわけじゃない。
慰めてくれるわけじゃない。

でも、いつも。

「そんなこと、自分で解決しな」

そう言って。
答えが出るまで、余裕綽々の態度で、笑って待ってくれてた。
それが、あたし達には頼もしかった。
だって、あたし達はいつも、分刻みのスケジュールの中、今にも溺れそうに、アップアップしながら毎日を過ごしていたから。
だから、それがたとえ気休めでも。
姫野ちゃんに「好きなだけ悩みな。それが若いうちの特権だから」って言ってもらえることがどんなに心強かったか分からない。

でも。
いま、あたしの前にいる姫野ちゃんは。

答えを迫っていた。

「私は、初めて娘。の担当になったときがちょうどあんたたち4人が新メンバーとして入ったときで、あんた達が可愛かったし、特別、仲間みたいな気がしてた。それに、本当はこんなこと言うべきじゃないと思うけど、いつも吉澤のことが一番気にかかった。あんた、あたし以外には、本当に気にかけてもらってなかったしね。事実、あんたはしっかりしてて、誰の助けもいらないように見えた。だけど、私には、あんたは、一番手がかからなかったけど。その分、心に爆弾を抱えてるみたいで。それが危なっかしくて。いつかキレちゃうんじゃないかって、心配してたし。それに、そんな危ういあんたが好きだった」

姫野ちゃんは言う。

それはね、あたしも気づいてたよ。
どうしても手がかかる辻加護や。
娘。の顔として責任のかかる安倍さんや梨華ちゃんのことや。
娘。を誰よりも愛してて、影で日向で支えてる圭ちゃんや矢口さんのことを。
気にかけてるスタッフはいっぱいいたけど。
中途半端な立場のあたしを気にかけていてくれたのは姫野ちゃんだけだったってこと。

「でもね、私は、吉澤以上に、モーニング娘。が好きなんだ。この年になって、好きなものに順番なんかつけたくないけど。でも、娘。がこれからもずっとずっと輝き続けてくれることが一番なんなんだよ。でも、私は、心から、その中に、あんたにいて欲しい。あんた自身が感じてる様に、あんたや、娘。の中にいるみんなのこと、そんな風に大事に考えている人間はそんなに多くない。そのことを今更あんたに隠そうとは思わない。でも、少なくとも、私は吉澤のこと、すっごく大切に思ってる。あんたのこと、自分以上に大切に思ってくれてるファンの人たちもいっぱいいる」

姫野ちゃんの目には涙がいっぱい溜まってた。
この、不安定なあたしに、本当のことを言うのは、すごく勇気がいることなんだって、わかるよ姫野ちゃん。
これが、姫野ちゃんの賭けなんだってことも。

「だから、今、あんたが私と一緒に帰ったら、今日のことは誰にも何も言わさない。あんたが、あんたのオフの時間にあんたのヒーローを追いかけることも、私が体を張っても、誰にも何も言わさない。辻が、勝手にあんたについてきたことも私には分かる。だから、今から帰ろう?違う方法で、ふたりでも、がんばろう?」

飄々とした姫野ちゃんの、初めての、自分の気持ちを剥きだしにした懇願。
姫野ちゃんはいつもあたしの味方だったのに。

「帰らない、って、言ったら?」

「私も、吉澤が毛嫌いしてる「ヤツら」の方に、つくよ」

姫野ちゃんの厳しい声。
でも、その目からは涙が溢れそうだね。

そして、あたしは姫野ちゃんも裏切る。

姫野ちゃんの言ってることは分かる。
姫野ちゃんを傷つけても、彼らのライブが見たいとか、そういうことじゃないんだ。

ただ。
姫野ちゃんの言ってるのは大人の理論だよ。

今、現在、こんなにもがいても、受け入れられない現実のあたしが、どこで受け入れられるっていうの?
姫野ちゃんに認めてもらっても。
仮にもあたしは、彼らと同じ土俵で、お金を貰って歌ってるんだ。
誰かの支えになってるんだ。

そんなあたしが、本当は、全部作り物の嘘っぱちだってこと、姫野ちゃんの言う方法でがんばっても、誰に理解してもらえるって言うの?

あたしは、今のあたし自身しか分からない。

きっと、大人の姫野ちゃんにしてみれば、不器用で、しなくてもいい反抗をして、バカみたいなんだろう。
でも、あたしには、このやり方しかないんだ。
それしかわからないんだ。

そうだよ。
きっと後悔する。
失うモノの方が多いんだ。

現実に、あたしは。
あたしの大切なモーニング娘。を失おうとしている。
あたしを愛してくれた姫野ちゃんも。

ねぇ、それでも闘わずにいられない、あたしの気持ち、分かるかなぁ。
その方が、たとえ楽に生きられる道でも。

今の自分を欺けない。
たとえ誰かを傷つけても。
今の自分を貫くしかないって気持ち。

「ののは、帰りな。今度、オフのときに、いくらでも連れてきてあげるから」

ののは、あたしと姫野ちゃんとのただならぬ雰囲気に泣き出しそうだった。

「よっすぃーも一緒に帰ろう?東京でも、いっぱい、いくらでも、コンサートなんか見れるじゃん!」

そうだよ。
姫野ちゃんにも。他の誰にも。
かけなくていい心配をかけてまで、彼らのライブを見たいからって突き通すわがままじゃない。
そんなの、大したことじゃないんだ。

あたしが帰らないのは。
意思表示。

あたしは、もう、あたしが選んだ道しか歩かないってこと。

「あたしは、ライブを見てから帰る」

ばしっ。

姫野ちゃんの平手打ち。
頬が熱い。

でも、痛いのは。
こんな風にあたしに裏切られた姫野ちゃんの方だ。

あたしは、ののと姫野ちゃんを置いて踵を返した。
振り返らずに、ライブハウスの通りに戻り、重いドアを開けて。
彼らの元へと。

振り返らなかったのは。
振り返れば泣いているあたしを、ふたりに見られてしまうから。
多分、泣いている姫野ちゃんを見てしまうから。

あたしは、もう、あたしが選んだ道しか歩かない。

それが茨の道でも。
それが間違った道でも。
そこに道がなくても。

それでも、もう他の道は選べない。


つづく


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